月別アーカイブ: 2月 2013

アベノミクス予測

2012年末に発足した第2次安倍内閣と共にアベノミクスが流行語となった。
2%のインフレターゲット、金融緩和などで、発表と同時に円安に向かった。

マスコミでは早速、最悪のシナリオを吹聴している。
「物価が上がって給料が上がらなければ最悪」と。

俺が思うに、給料なんて上がらんよ。
ローソンの新浪剛史社長は子育て世代の給料を上げるとブチ上げた。天晴れに思うが、他のほとんどの社長は、事なかれ派で、賃上げには向かんと思う。
円安で輸出が増えれば増産する。増産するには残業を増やす。
残業が増える分、正社員の手取りは上がるが、会社にとっては残業を増やすよりパートを増やす方がコストもリスクも低いので、すぐにそうなる。
結局給料は上がらないまま。
でも。雇用は増える。失業率も下がる。パート時間も増える。

早い話、世帯主の給料が増えるのではなく、共働きが可能となり、その世帯は恩恵を受ける。だな。
年金婆ちゃんと非正規雇用孫の同居がトレンディーになりそう。

「物価が上がって給料が上がらなければ最悪」は的外れ。マスコミが不安を煽って儲けたいなら、
「シングルインカム世帯は大変」と言うべきだろう。これは当たるぞ。

離婚して子供を連れた女は援助が期待できるが、男は茨道となる。カミさんを奉れ。
年金を納めていない高齢者は、元気な内にシェアハウスに集って年寄りを敬う型を構築しよう。

この傾向、若者にとっては良い事だ。
職に就けるし、同棲や結婚に向かいやすくなる政策と言える(^^
出生率を上げる政策かな。
出生率向上には寄与しないが、中年独身者の恋外結婚(?)も増えそうだね。

次郎長な自治体

生活困窮者らを受け入れる「無料低額宿泊所」の運営業者の中には、受給者から保護費全額を受け取って一部のみ小遣いとして渡したり、劣悪な住宅に入居させたりする業者がいるため、適正な運営を求める。
~YOMIURI ONLINE(2013/2/21)より抜粋~

埼玉県議会が、宿泊所「貧困ビジネス」を規制する為に条例を制定するらしい。
それはいいんだけど…、なんでヤクザな業者に代わって自治体が主導しないのか不思議。

もうちょっとマシな住宅を用意して、受給者にはもうちょっと多くの小遣いを渡し、もうちょっとマトモなNPOに運営させれば、生活困窮者もNPOも自治体もハッピーじゃん。

なんてったって住居費を天引き出来るんだから、生活保護費の住居分を無くせる!
住宅は、自治体の過疎な地域に設ければ、その地域の経済は潤うし、「街を離れるのは嫌だ」という人の生活保護費は打ち切れるし、どっちにしてもいい。

自治体がヤクザな業者の生業を奪う形になるけど、彼等はどこかでまた、生活困窮者を集めるだろう。
そしたらまた、自治体が引き取る。てか、奪う。
一人の業者が足を洗っても、また別の業者が現れる。
これを繰り返せば生活困窮者も少し人間的な保護が受けられるし、薬系の貧困ビジネスも減らせる。

そうそう、これで立ち行かなくなった街の「劣悪な住宅」を自治体が条例で召し上げるか、又は安く買い叩いて、老人ホームやシェアハウスにすれば、儲かるし、高齢者対策にもなる。

なんか自治体がヤクザのように見えるが、自治体ってそうゆうもんじゃあござんせんか。

立候補

改めて振り返ってみると、なんだかんだと立候補していた。推薦を受けるのじゃなく、自ら立候補。

学級新聞作りの面白さに目覚めた俺は、中3で受験を控えた10月にも係わらず、広報班長に立候補。
どの班も班長なんて推薦されて仕方なく引き受けるモノだったし、前期作った新聞の評価も高かったので、異論無く当選。受験勉強無視で班員以外の応援も得て毎月1日と15日に発行し続けた。
1月1日は自転車でクラス全員の自宅に配る記者魂(^^;

高2の修学旅行で、コース選択から船内での動向まで、教師から受ける子供扱いに対する反発から、「自主を勝ち取りたい」と生徒会長に立候補。
が生徒の多くは、事なかれ主義だった(TT) で、単独立候補ながら40%強の史上最低得票率で当選。
選挙への関心を高める為、自らを短命政権にして、生徒会会期を半年にしたなぁ。

1981年、コナミ入社後やや有って開発部に編入され、まずはキャラクター(当時は記号に近い^^)作成をしていたが、朝の会議で課長が「誰かサウンドプログラムをやってくれないか?」と呼び掛けられ、アセンブラ言語を数時間教わっただけの俺が手を挙げていた。
無謀にも見えるが実際は、当時の常識を覆すサウンドを次々と打ち出した。

サウンドプログラマとして頑張ってはいたものの、画像プログラミングにも強い関心を持っていた。
或る未発売作品の画像プログラミングは先輩の主任が担当していたが、主任の退社後、内緒で勝手に画像プログラミングで遊んでいた。
で主任が海外出張している間に、勝手にセルフチェックプログラムを作っちゃって、採用された。
『ジャイラス』では提案を「出来ない」と言われたので、勝手に作って「出来ますけど」と見せたり…。
で1983年、画像プログラマに立候補し、『サーカスチャーリー』で3つのステージを任せられた。

1986年、米国開発室設立に際しては、後輩に駐在を勧めているうちに自分が行きたくなって、社長室に行って直談判的立候補(^^
日本の全ゲームメーカーが売上を落としていた米国市場を、日本以上のシェアに変えた。

出る杭は打たれるという状況は、在るには在る。
でもそんな事、本人は気にしなくてもいい。
そんな些細な問題より、立候補のいいとこは、「失敗では終われない」縛りと言うか、脅迫観念と言うか、良く言えば士気が上がる。いや、やはり恐怖心と隣り合わせだけど(^^;
でも、現状以上の力が発揮される事は間違いない。
そしてそれは、自分が伸びるだけじゃなく、後輩にノウハウを分けられる。

犯人の責任能力

「犯行時の責任能力」って聞くが、精神に異常があれば罪を軽減される場合が在るらしい。
「罪を憎んで人を憎まず」的な話はさて置き、ここでは「犯罪に責任能力なんて無意味」という理屈を。

そもそも、正常な人が犯罪を起こすのか?犯行時は誰もが精神的に異常でしょう。
俺はたまに赤信号を無視して歩く。俺なりの論理は有るが、社会的にその時の俺は異常者だ。
そして、異常な時を持つ俺は、全体としても正常とは言えない。
精神に異常を来たしているから罪が無いなんて言ったら、この世に罪なんて無い。

飲み会にクルマで行き、帰りは十中八九代行を呼ぶが、1~2回を飲酒運転で帰る人は、飲む前で既に精神異常と言わざるを得ない。
精神異常で刑が軽くなるなら、マリワナ喫煙や飲酒運転での事故も刑罰を軽くしなきゃならない。
しかし現実は逆に重くする傾向にある。重くして当然だと思うが、矛盾している。

知的障害者が殺人を犯す場合、存在しないナイフを持っている積もりで殺そうとしたならかわいそうに思うが、刃物を持ち出したなら、武器の有用性については知的に理解している。
気合だけで相手を排除する事は出来ない。人を危めるには合理的な手段を使っているはず。
犯行時に合理的手段を用いれば、普段の知的障害は意味を成さない。
改心の見込みが薄いから刑期を短くするのかな?それは逆で、刑期に教育期間を盛り込むのが正解と思う。合理的な行動を取れるなら、時間さえ掛ければ善悪の判断が付くと思う。

無差別犯罪

通り魔で死者3人、負傷者10人だったら、罪はこの13人に対するものなのか?
殺人未遂は問われないのか?
無差別犯罪では、未遂も罪として扱うべきだと考える。

Aさん、Bさんが並んで歩いているところに、この2人を殺すつもりで凶器を振るい、Aさんが死亡し、Bさんと通り掛かりのCさんが怪我を負ったなら、この3人に対する罰を科せばいい。
Cさんには気の毒だが、運が悪かった。この犯人にとってCさんは予定外だった。

しかし、先述の13人を死傷させた犯人は、通り掛かりの全ての人をターゲットとしていたわけで、巻き込まれなかった人は運が良かったに過ぎず、この運の良い人に対する殺人未遂の罪は免れない。

では、事件に巻き込まれなかった幸運な人とは誰か?
それは、「通り魔」と言うぐらいだから、犯行の間に犯人がその通りで移動した距離×通りの幅、この面積に居た全人数に対する殺人未遂だと考える。
クルマで人を轢いたなら、クルマも凶器として使われた距離を算定せねばならない。

この考えで刑罰を決めれば、2008年の秋葉原通り魔事件は言うに及ばず、通り魔と名が付けば、膨大な人数に対する殺人未遂となり、軽くても終身刑となるだろう。当然。

地域の不特定多数の人が食うカレーに毒を入れた場合も、イベントに呼び掛けられた人全員に対する殺人未遂に違いない。
カレーの量からして、呼び掛けられて来なかった人の分まで罪を科すのは酷だと思う人も居るだろう。
しかしここで言っているのは殺人未遂。そこまで考えているか否かは別として、犯人のターゲットは、物理的に呼び掛けられた人だ。来る来ない、食べる食べないではない。

詐欺もそう。名簿を基に電話したなら、電話に出なかった家も、まだ掛けていない家も含め、名簿に載っている全家屋の全住人に対する詐欺未遂を罪として科すべき。
一人の最高被害額が3千万円なら、3千万円の詐欺未遂が全住人分。
簡単に100年の実刑になるだろう。もし累積すれば。

培われた20年

1990年代半ばから2010年代半ばを失われた20年と言うが、随分良くなったと思う事が有る。

1990年代のバブル崩壊まで、多分その始まりは1950年代の高度経済成長期から、「富=善」式が世の法則だった。
当時でも随分嘆いていた人は多かったが、それは懐古趣味として天動説扱いだった。

ところが、失われた20年で日本は大きく変わった。
中年層の「古き良き時代を省みる」向きは、やはり懐古趣味かも知れないが、若者は全く変わった。

クルマ? 電車で十分。
マイホーム? 賃貸の方がいいでしょ。
日用品? 百均で何でも揃う。
レコード収集? ネットで聞く。

所有欲や虚栄心が薄らいでる。
「夢が乏しい」「若さが足りない」と言う中年も居るだろうが、「質素」でいいと思うな。俺は。

景気が良くなれば、彼達も少しは変わるだろうが、見栄を張るのではなく、コダワリに向くと思う。
趣味に百万円を費やしても、日用品は百円のままって式。
中年も含め、もうバブルなんて来ないと分かっているし。

少し危うくなってきている「安全」については、やはり日本では重視されるだろうし。
「清潔」に関しては行き過ぎなぐらい尊ばれているし。

2040年代の日本は、「清潔」「安全」「質素」を旨とする人達で占められていると思える。

詐欺師メーカー

ネズミ講や、上場前企業の株券購入や、先物取引などで騙される老人を可愛そうと見る向きもあるが、俺は、「ええ歳こいて何勉強してきてん。世の中そんな美味しい話無いわ、この欲ボケが」と思う。

振り込め詐欺のような、親切心に付け入る犯罪ではなく、「儲かりまっせ」「損しまへんで」という口車に乗って、労せずして大金を掴もうとしたのなら、例えその金が爪に火を灯すようにして貯めた、なけなしの金でも、仕方ない。
第一、もし、大金が入ったら、ぽっぽないないでしょ。
「もし」どころか、詐欺の序盤では一旦儲けて、深みに嵌まる人も多いし。

一攫千金の夢を見られたんだから、良しとしよう。
その上で訴えて、返金されればラッキー。
返金が適わなくても、取り敢えず反面教師になれる。

騙されたのが、世間の汚さを知らない20歳ぐらいの若造なら、そりゃあ騙した方が一方的に悪い。
しかし、中年以上ともなれば、無知も罪だ。未遂の詐欺師を犯罪者に変える。

正調詐欺

二十代半ばだったか、初めて小銭詐欺に遭った。
駅で切符を買おうとしていると、おじさんが、
「済みません、財布を掏られたみたいで家に帰れないんです。100円でも貸してもらえませんか?」
「貸すも何も、困ってるんだから、100円ぐらいあげよう」と思ったが、財布には大事な物が入っていたかも知れない。
当時、そういう詐欺が在ると知らなかった俺は「交番で被害届けを出すべき」と助言。
戸惑っているおじさんを見兼ね、「場所を知っているので、私と一緒に行きましょう」と言うと、このおじさん、チッと舌打ちをして消えていった。
「あぁ!今のは、詐欺師だったのか」と気付いた。

その後も何度か同様の詐欺師に遭遇したが、「これは詐欺だろうな」と思いつつ、「交番に行きなさい」と言う事にしている。
最近は遭遇しなくなった。俺がおじさんに成ったので、騙し辛いと思われているのか、またはそういう手口が知れ渡って使えなくなったのか。
後者ならブームの波はまた来るだろう。

こういう詐欺に引っ掛かるのは、世間知らずの田舎者とか、親切な田舎者なんだな。田舎は余計か。
世間知らずが詐欺に引っ掛かるのは、世間を知る為の対価、つまり授業料と考えられなくもない。
小さな詐欺に引っ掛かって、大きな詐欺を免れるなら、詐欺師も教師と言える。

舌打ちしたおじさんは、親切心に付け入る事が出来ない、真面目な詐欺師だったのかも。
そう、親切心や痴呆症に付け入るのは、イカンねぇ。こりゃ詐欺師と言うより、外道。

プロとアマ

コナミ入社から数年、ゲーム開発の企画会議に参加していた俺は、常に「プレイヤ(最終消費者)に好まれるゲーム(商品)とは何か」を考えていた。
「自分が作りたい物は何か」ではなく、客本位の商品を作る。そういう商品作りの姿勢が在るからこそ、自分のレベルが向上し、商品のレベルも自分の壁を超えて高い位置に押し上げられる。
そう考えていたし、実際そうだった。

専門学校時代に知り合った友人は18歳にして自動車の修理工として就職していた。
彼は高校時代から始めたバンド活動に熱心で、社会人になった後も続けていた。

彼のドラマーとしての腕は優秀で、コンテストでは個人賞を取り、他のバンドからも応援を頼まれる程。
ギターも上手く、作曲も出来るし、歌わないが歌ったら飛び切り上手い。

才能が有るのにもったいないと思っていた俺は、彼に「プロを目指さないのか?」と尋ねた。
すると彼は、「俺はアマとして好きな音楽を続ける」とキッパリ。

プロを目指して上京した先輩達が、初心を貫けない事はよく在るそうだ。
好みの方向の音楽を続けたい気持ちも分かる。
しかし俺は、彼の考えは間違えていると思っていた。
自分と作品をレベルアップさせる為には、聴視者に迎合すべきで、その為にはプロを目指すのが一番。
そう信じていた。だから「プロを目指すべき」と押し付けていた頃も有る。

10年が過ぎ、俺はプログラマ、ディレクタ、プロデューサとして成功していた。米国のディストリビュータやオペレータそして勿論プレイヤに喜ばれる商品を次々に供給していた。
さて、その友人はというと、相変わらず同じバンドで同じ方向性の音楽を続けていた。
そして、バンド内外の仲間との交流も同じように続いていた。

その頃になってやっと分かった。
商品は商品として、趣味は趣味として、別のアプローチが有っていいのだ。
同じ方向を向いたまま10年続ける事はプロでは難しく、時には方向転換も必要だし、場合によっては仲間との決裂も有る。
しかしそれを続けられるのがアマの特権であり、彼の姿勢から、その意義深さを思い知らされた。
彼は、聴視者をも含む仲間在りきで作品を作り、演奏していたのだ。
よく20歳そこそこでその事に気付いていたな、そしてよく10年以上続けたなと感心する。

論協の確率

議論をすると、不毛な論争になるのは、確率的に当然。
2人で議論する場合、双方が「相手の意見を尊重する」場合のみポジティブな方に向かう可能性が有るのであって、片方もしくは両方に「相手の意見を尊重する」姿勢が無ければ不毛。
つまり、議論がポジティブに向かう確率は、場合分けしただけでも4分の1となる。
そして実際には、「相手の意見を尊重する」人の確率も加味せねばならず、これが4分の1なら、議論がポジティブに向かう確率は16分の1だ。
3人だったら、64分の1。4人だったら、256分の1だ。

しかし「相手の意見を尊重する」人の確率が2分の1だったらどうか?
この場合、論者が4人でも、16分の1でポジ出し可能。

「相手の意見を尊重する」人の確率を上げれば、議論はべき的(?)にポジティブになる。

「相手の意見を尊重する」のを、人の確率ではなく、人の姿勢として捕らえてもほぼ同じ事が言える訳で、ポジティブな結論を導き出したければ、お互いにそう成れば良い。
貴重な時間を費やして、不毛な論争に明け暮れるのはMOTTAINAI。

ご存知でしょうが、「相手の意見を尊重する」姿勢の有る、気のいい凡人が集まって、画期的な結論が出ると保障する訳ではありませんので、あしからず(^^;