日別アーカイブ: 2013/03/19

実験的学級

大阪市内の小学校は1970年頃既に少子化で、俺らの学年は1~3年は2組有ったが、4~6年は1組だった。
このクラス(=学年)を3年間、一人の熱血教師O先生が担任してくれた。
O先生の教育方針は独特で、算数と図工と音楽に特化していた。
市立小学校で許されるのか否か知らないが、これら3教科には随分多くの時間を割いていた。
クラス替えなんて無いわけだから、3年間、専門教育を受けたようなものだ(^^;
俺がビデオゲーム制作のディレクターになったのはO先生の導きか!?

算数はじっくり教え、その後のテストも真剣なモノだった。中間テストが毎週有るような感じ。
難問を俺一人が解いたので、5点追加で105点くれた。粋だねぇ。このお陰で95点が相殺され、連続した5テストで500点取ったりした。何が言いたいかというと、単に自慢です。親は喜んだよ、しかし。

図工では、教室の中央に椅子を山積みにして丸一日ペン画なんて授業もあった。
赤と黒の組み合わせが美しいなんて、マイケル・ジャクソンが流行る15年前から知っていた。
灰や紺を避け、ガソリンスタンドのジャンパーみたいな色のスーツを好むのもO先生の影響。

音楽はこれまた飛び切り熱心で、毎朝、授業前に合奏や合唱をやっていた。
覚えたての歌謡曲を縦笛で初めてでも間違えずに演奏できる程に上達したのはO先生のお陰だ。
市立小学校なのに、合唱ではピアノの先生を招いていたなぁ。
合唱コンテストにも出た。け・し・ご・む・が~ こ・ろ・こ・ろ・と~ って。
O先生が作曲したK校の校歌はめっちゃ練習して今も覚えている。出身校のは忘れたけど(^^;
今の俺の声は随分低く、カラオケで歌うとそれだけで称賛を浴びたりするのだが、意外にも、小学生の頃はソプラノで、合唱では端っこで歌っていた。

O先生は4~6年の間、男子児童に「声変わりの時期に大声を出すな!」と厳しく躾けていた。
声変わりで自慢のソプラノが出なくなったのに、頑張って高いキーを出そうとする俺に、O先生が「もう、お前に高い声は求めてない」と言われ、合唱での立ち位置が日ごと真ん中に寄るのは辛かった。
でも、O先生の言い付けを守ったお陰で、落ち着いた低音の声を授かったのだと思う。

11歳前後の男児諸君、カラオケで美声と称えられたかったら、声変わりが終わるまで喉を大切に。